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歴史紹介創業から現在までの紡がれた思い
1274年頃〜1908年
当社は創業約400 年、古くは江戸時代(1600 年頃)に遡ります。二代将軍徳川秀忠が信楽の長野村に茶壺を注文したのを機に、将軍家及び朝廷御用として信楽茶壺が用いられるようになりました。献上茶壺は、細部にまで規格が定められており、焼き上がりまでの工程には高い技術が求められ、100 個焼いても1 個ぐらいの割合でしか献上できるものは作れなかったと言われています。それ故、作者も決まっており、それを請け負ったのが明山窯の先代に当たる石野伊助であるという文献記録が残っています。
同じく江戸時代の後半、朝鮮通信使使節一行の食事に使われる食器(陶器)を、信楽で焼いたという記録があります。文化7年(1810)の古文書には、先代である石野伊兵衛がその300 余名分の食器の注文を受けたことが記されています。それら食器の寸法や形状、数といった仕様が絵図と共に詳細に記述され、当時の実物資料が今もなお、当社に大切に所蔵してあります。我が社の創業の原点は、2 人の先代「石野伊助」「石野伊兵衛」による、献上とおもてなしのものづくりに起源をみることができます。以来約400 年、信楽という地で「土」と共に歩んできた企業です。
1908年〜1980年
明治から大正時代にかけて、信楽焼は火鉢の一大生産地として地位を築き、当時の火鉢生産の80%のシェアを誇りました。当社においても、それは例外ではありません。5代目の石野里三は、大正時代に人気だった海鼠釉(なまこゆう)の火鉢の大量生産を可能にするため、仲間と協力し、石膏型を使った「機械ろくろ」を信楽で初めて開発しました。この「機械ろくろ」で生産効率と品質も向上し、広く信楽焼の発展に貢献し、当社の信用力の向上へと繋がりました。その後を受け継いだ6代目の石野明は、戦後からの復興と事業の立直しを目指し再スタートを始めます。貧しい状況の中でも、やきものづくりにひたむきに取り組み、数人の職人たちと力を合わせ事業を再建します。1980 年には事業を法人化し、「マルイ石野製陶所」から「明山陶業( 株)」へと改め、さらなる飛躍のための礎を築きました。
1980年〜2005年
昭和後期に入り窯業設備も近代化に向かい、機械ロクロやガス窯などの普及が進み、信楽は産地としての興隆期を迎えます。当社においても、1968 年にガス窯を導入し量産体制を整えました。それにより、良品率の向上と量産化が可能となり、かねてより製造技術のノウハウを備えていた花器・花瓶という商材が、高度成長期という時代背景と共にその後の主力生産品となり、「花器の明山陶業」として産地内での立場を築きました。今日においても、花器・花瓶は明山窯の大切な商品のひとつとして製造し続けています。
平成に入り陥った経済の低迷は、信楽の陶器産業も例外ではありませんでした。低迷の中、当社の転機となったのは1992 年の自社製品カタログの制作でした。下請けが当たり前の製造メーカーの中にあって、当時としては画期的な試みでありました。これを契機に、自社職人の技を集結した社内企画による新商品開拓への挑戦をはじめ、販路の拡大と情報基盤の構築に着手していきました。こうした取組みの中から、陶雛人形・陶兜・照明・干支などこれまでにない多様な商品がつくられるようになり、次第に少品種多量生産から多品種少量生産体制へと進んでいきました。
2005年〜現在
2005 年よりIT 事業部を設立し、当社のものづくりに対する考えやこだわりを、購入頂くお客様に直接お伝えしたいとの思いから、自社HP を開設し、web ショップの運営を始めました。HP 開設に伴い、これまでにはない販路の開拓が進み、市場の拡大へと繋がっています。また近年は、web をはじめとした積極的な情報発信により、異業種やデザイナー・大学・個人様などとの交流が進み、協働による新しい商品開発と販路の拡大へと繋がっています。
2 0 1 0 年には、かつての役目を終えて放置されたままであった登り窯の姿を、地域の文化遺産として後世に伝えるべく周辺の改修を行い、明山直営店「O g a m a 」をオープンしました。“飾らない信楽を体験できる場所” をコンセプトに、明山の商品をお買い求めいただけるのはもちろん、カフェや陶芸教室、さまざまな企画展も開催しています。Ogamaをきっかけに、多くのお客さんに信楽を楽しんでいただき、地域に貢献していくことを目指しています。